新井校長説教集20~クリスチャンへの弾圧と拷問~

2020年2月21日

- クリスチャンへの弾圧と拷問 -

『ヨハネ黙示録』1:9

1 はじめに

1章9節後半の「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモス島と呼ばれる島にいた」に集中してお話します。

ローマ帝国は、皇帝崇拝に従わないクリスチャンたちを憎み、何度も弾圧しました。紀元64年に皇帝ネロによるクリスチャン迫害がありました。クリスチャンたちを捕らえては空腹の野獣の餌食にしたと伝えられている恐ろしい迫害でした。この時、弟子のペテロや使徒パウロが殺されました。更に95年には、皇帝ドミティアヌスによる大迫害がありました。ネロの迫害はローマ市内だけのものでしたが、ドミティアヌスの迫害は小アジアにまで及び、皇帝崇拝を拒否するクリスチャンは容赦なく殺されました。この迫害の中で、ヨハネはエペソの沖合に浮かぶパトモス島という孤島に流刑されました。孤島での孤独と苦痛の中で、愛なる神様から示された幻を書き留めたのがこの書です。

2 弾圧と拷問

いつの時代でも、上に立つ権力者は自分の言うことを聞かない者は憎い邪魔者です。戦前の日本では「治安維持法」があり、左翼思想家やクリスチャンは危険な思想の持ち主と言うことで、「特高」という警察に捕らえられて拷問を受け、殺されたりしました。

皆さんは小林多喜二という小説家を知っていますか?『蟹工船』という小説が有名です。三浦綾子さんが多喜二とその母セキのことを『母』という小説に書いています。セキは秋田の生まれ育ちですが、家が貧しく学校にも行けませんでした。16歳という若さで嫁に行き、やがて北海道の小樽に暮らしました。無学でも愛情一杯のお母さんでした。長男は多喜郎と言い、12歳の若さで死んでしまいました。多喜二は次男です。3つ上の姉がチマで、若い時に信仰を持ち、後に母セキを信仰に導きました。すぐ下の弟は三吾といい、音楽の得意な子でした。兄弟揃って頭が良く、多喜二は小樽商科大学を出て、北海道拓殖銀行に就職しました。多喜二は人一倍優しい性格で、初任給の半分を叩いて音楽好きな弟三吾のためにバイオリンを買ってやったそうです。また若い頃から文学に興味のあった多喜二は、仕事の合間には5行・6行と小説を書き進めました。多喜二は、劣悪な条件の中で暮らす労働者を書きました。作品の中に特高の残忍な拷問についても書いたので、特高の憎しみを買い、これが逮捕されるきっかけになりました。特高に尾行され、捕らえられ、何も悪いことをしていないのに危険な思想をもっていると拷問を受け、30歳の若さで死んでしまいました。太腿部を何度も千枚通しを突き刺さすような酷い拷問でした。愛する息子の突然の死、しかも不当な拷問による死を知った母セキの怒りと悲しみはいかばかりだったことでしょう。

暫くしてセキは、娘チマの勧めで小樽シオン教会の門をくぐります。字の読めないセキには聖書の話は大変でしたが、近藤牧師の優しく情熱的な話に次第に引き込まれていきました。何も悪いことをしていないイエス様が、殺される十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(『ルカ』23:34)の言葉にセキは感動しました。息子多喜二の死とあまりにも似ていたからです。

多喜二も聖書に詳しく、良く「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(『ヨハネ』1:5)という聖書の言葉を口癖のように言っていました。母セキはやがて洗礼を受け、クリスチャンになりました。大好きな讃美歌は「やまじこえて」(21-466)でした。お葬式は敬愛する近藤牧師のもとで行われ、「天国で多喜二に会いたい!」と安らかに息を引き取ったそうです。

ヨハネが経験した弾圧や流刑、小林多喜二や母セキ・家族が受けたような不当な苦しみは二度とあってはなりません。このことを今日の聖書から心に刻み付けたいと思う者であります。