新井秀校長説教集24 ~安息日に麦の穂を摘む~

2020年5月21日(木)

〈安息日に麦の穂を摘む〉『マルコ』2:23~28

1 はじめに・・・今日も放送による礼拝です。今日の聖書のお話は今から約2,000年前、カファルナウムという町で安息日(土曜日)に起こったことです。イエス様の弟子たちは余程お腹が空いたのでしょう。黄金色に色づいた他人の麦畑に入り、麦の穂を摘み、手で揉んで食べました。それを見ていたファリサイ派の人々がイエス様に対して「あなたの弟子たちはとんでもないことをしている」と注意したところです。ユダヤは寛大な国で、旧約聖書の『申命記』23:26に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあり、また23:25には「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分食べても良いが、籠に入れてはならない」と規定されています。
日本だったら、たとえ桃1個、りんご1個でも他人の畑のものをとったら、泥棒となり犯罪者になりますが、ユダヤでは貧しい人、生活に困っている人のことを考えて、このように極めて寛大でした。ここでファリサイ派の人々が問題にしたのは、他人の畑の麦を勝手にとって食べたことではなく、その日が安息日だったことだと分かります。

2 安息日とは何か・・・安息日は有名な「十戒」の4番目で、「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」と、神からモーセを通して与えられた「優しさ」と「愛」に満ちた決まりでした。

しかしイエス様の時代になると、細かいおびただしい数の規則や命令が加わり、律法は人のためにあるのではなく、人を監視し評価するための冷酷な道具になっていたのです。

3 イエス様の答え・・・悪意に満ちたファリサイ派の人々へのイエス様の答えは次の2点でした。

第一は、旧約聖書に登場するダビデも逃亡生活の中で、空腹のあまり、祭司アヒメレクに頼み、祭司しか食べることの許されていない神殿に備えられたパン12個を、部下と共に食べさせてもらったことを引き合いに出し、律法を破ることよりも愛の行為に重きを置くべきことを語っています。

第二は、律法は人を裁いたり、監視したり、評価したりするためのものであってはならず、本来の神の愛に根差したものに戻すべきと、27節で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言い切っています。

4 安息日を守ることの大切さ・・・今日の生活で安息日は日曜日です。学校も、サービス業を除く多くの企業もお休みです。更に週休2日制で土曜日もお休みです。でも聖書で言う安息日とは仕事を休んで身体を休め、教会の礼拝に出席して神を賛美し、心をリフレッシュすることです。

西部開拓時代のアメリカのカリフォルニアで砂金が見つかりました。多くの人々が一攫千金を目指して、幌馬車を仕立て、誰よりも先に西海岸カリフォルニアに着こうと必死に旅を続けました。そうした群れの中に牧師一家がいました。金を手に入れ荒れ果てるであろう人々の心に、イエス様の愛を伝えるのが目的でした。一日でも早く着きたい多くの人びとは、一日も休まず、馬に鞭を打って西へ西へと急ぎました。そのため身体を壊す者、動けなくなった馬、故障した幌馬車が多く出ました。それに対してこの牧師一家は、日曜日には旅を止め、静かに神を礼拝し、身体と心を休めました。人間だけでなく馬も休息し、幌馬車は手入れがなされました。結果、誰が一番早くカリフォルニアに着いたでしょうか?そうです!人間も家畜も幌馬車も必ず安息日(日曜日)にはゆっくり休息した牧師一家だったのです。

忙しい現代、私たちはゆっくり身体を休め心をリフレッシュするために、安息日を守る」ことが求められていると、私は思います。