新井秀校長説教集79~乳飲み子のように~

 2022年11月9日(水)

朝 の 説 教

           - 乳飲み子のように -   『ルカ』18:15~17

今日の聖書箇所について最初に2つ説明をしておきます。第一は、イエス様に触れていただくのは何のためかということです。これはイエス様をラビ(先生)の一人と考えた母親たちが、自分たちの幼子の頭にイエス様に手を置いていただいて祝福の祈りをしてもらうためです。第二は、それに対して弟子たちがなぜ叱ったのかです。「叱り飛ばした」とも訳せる強い言葉です。愛情のない酷い仕打ちのように思います。弟子たちは既にイエス様からに二度、「自分はエルサレムで指導者たちから辱めを受け、侮辱され、苦しめられて十字架刑で殺される」と告げられていました。彼らは道々、イエス様の悲しみ悩む姿を目撃していたのでしょう。そんな先生を幼子の騒ぎ声で悩ませたくない、今は静かにさせておきたい、そういう配慮があったのだと私は思います。でもイエス様は、「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われました。イエス様がここで最も言いたかったのは17節の「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」です。「子供のように神の国を受け入れる」とは、一体どういう意味なのでしょうか?イエス様は何の説明もしておりませんから、自分で考えるしかありません。以下は私の考え・理解です。

「乳飲み子」は生後間もない赤ちゃんです。その最大の特徴は「無力」です。まだ歩けず、ハイハイするのがやっと。まだ喋れませんから、あれが欲しいこれが欲しいなど一切の意思表示が出来ません。自分の全てを親の愛情に委ね切って生きています。このことをイエス様は言っているのでは?と私は思うのです。大人になった我々は自分の得た知識・経験・体力・財力・地位などを瞬間的に総動員して物事の判断をします。それが全て悪いのではありませんが、そこにもし神様・イエス様への愛と信頼が欠けていれば、大きな落とし穴に落ちる危険が待ち伏せしています。

『創世記』に出て来るヤコブという人の生涯はその良い例であります。ヤコブは「押しのける者」という意味の名前の通り、兄エソウを騙して長男の特権を奪いました。そのため兄エソウの復讐を恐れて20年間もの長い間、叔父ラバンをたよってハランの地に逃れました。叔父ラバンを欺いて莫大な財産を自分のものにし、叔父との間に仲たがいが生じました。ヤコブは家族や僕やおびただしい数の家畜を連れて、夜逃げ同様にハランの地を逃げ出しました。しかしヤボクの渡しまで帰って来た時、兄エソウが武装した400人を率いて自分の帰りを待っていると聞き、恐怖に慄きました。狡賢いヤコブはここでも色々と策を練り、解決法を探ります。でも全てが不可能と悟りました。ヤコブは妻子や僕や家畜などを先に川を渡らせ、一人後に残り、夜明けまで必死に神に祈りました。その間、人の姿をとられた神と組み打ちをし、腿のつがいを外されてしまいました。もう自分一人では立つことも動くことも出来ません。ヤコブはここで初めて自分の能力や経験や知識に頼ることを止め、神にすがりました。神に「わたしを祝福してください。そうしなければあなたを去らせません」と必死に食い下がりました。遂に神はヤコブの望みを受け入れ、彼にヤコブ(押しのける者)ではなく「イスラエル」(神が支配する)という新しい名前まで与えたのです。

翌朝そこを出発するヤコブは、以前のヤコブとは全く違っていました。弱く砕かれた謙遜な人間になっていました。彼の心からは兄エソウからの復讐の恐怖が去り、神が共にいてくださるという確信と平安に満たされていました。兄エソウとの対面においても驚くべき和解が成立し、兄弟の仲直りが出来たのです。でもあれだけ自分を愛してくれた母リベカとの再会は果たせませんでした。

イエス様は今日の話で言うのです。子供は、たとえどんなに苦しいことがあっても、辛いことがあっても、自分の親が必ず守ってくれるという安心感に支えられている。私たち大人も神の愛に絶対的信頼を寄せ、いつも安心して生きてゆくことが大切だよと。幼子が母の腕に抱かれてゆったり安心しているように、私たちも神様・イエス様の手に抱かれて安心して感謝して生きることを勧めているのであります。