校長説教集57 〜祈るときには〜

校長

2021年5月18日(火)

朝 の 説 教

- 祈るときには ー             『マタイ』6章5~15節

昨日の聖書でイエス様は、人に見てもらい褒めてもらいたいと、わざと人前で施しをする当時の指導者たちを「偽善者」と批判しました。今日も同じです。

人に注目され褒めてもらいたくて、わざと目立つ所に出て行って長々とお祈りする指導者たちを、再び「偽善者」と厳しく批判しています。

そこで今日は短い時間、キリスト教の祈りについてお話ししたいと思います。

1 祈りは神様に向ってします。だから祈りの最初に「神様!」と呼びかけます。祈りの中身は大きく二つ、一つは神様への感謝と賛美です。「神様有難うございます!」という祈りです。二番目は「~してください」というお願いです。お願いだけだと「請求書の祈り」に終わってしまい不十分です。「神様有難うございました」という「領収書の祈り」が不可欠です。祈りの最後には、必ず「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン!」と言います。神様と私たちの間にイエス様に入っていただき、とりなしていただくためです。

2 祈り方は何も決まっていません。手は組んでも良いし、合掌でも良いし、膝に手を置いても構いません。目はつむっても、つむらなくても良いです。頭を垂れて祈るのも良いし、天空に向って顔を上げて祈っても構いません。跪いて祈ることは、とても素晴らしいことで、わたしも時々します。神様への絶対的信頼と服従が現れているからです。イエス様ご自身、殺される直前、うつ伏せになって祈ったお方でした。

3 祈りについての根本的な教えは詩編50編15節にあります。「悩みの日にわたしを呼べ。わたしはあなたを助ける。そしてあなたはわたしを崇めるであろう」です。第一に神様は、私たちに祈りなさいと命じています。第二に、その祈りは必ず神様に届き、最も良い回答が与えられると約束しています。第三に、その結果人々は神様を褒め称えると言っています。

4 祈る時には、神様は決して悪いようにはならさないお方だという信頼をもって祈ることが大切です。祈りは神様を変えません。祈っている人間を変えるのです。わたしたちの意のままになる神様は、「神様」ではなくなってしまいます。私たちがどう祈り願おうと、神様はご自分の御心を行うのです。私たちは「今すぐ欲しいもの」を祈りますが、神様は私たちに「本当に必要なもの」をくださる方であります。

私の父は24歳の時、東芝のバスケットボール部に所属し、試合中相手選手と激突したことが原因で、失明しました。父も家族も皆必死に視力の回復を祈りました。でも神様の答えは「NO!」でした。やがてイエス様に導かれた父が気付いたのは、神様からの「お前にやって欲しいことがあるんだ。日本の盲人に福音を伝えるために、日本の盲人の生活向上のために、私は敢えてお前を失明のままにした。私の使者になってイエス・キリストの福音を伝える者になってくれ!」という声でした。父は盲学校の英語の教師をしながら、毎土曜日自宅を開放してバイブルクラスを開き、神様の期待に応えて何と100人以上の人々を信仰に導きました。私自身、父に導かれた者の一人であります。

このように、祈りの回答は神様が決めるものであり、その回答には神様の愛と遠大な計画が秘められていることを知って欲しいのであります。お互い、日々神様に感謝し祈り願う者でありたいと、今日のイエス様の言葉から改めて教えられました。