新井秀校長説教集70~ともし火のたとえ~

2022年6月22日(水)

朝 の 説 教

- ともし火のたとえ-

『ルカによる福音書』8章16節

今日は「ともし火のたとえ」で、私は16節に絞って話をします。ここでイエス様が「ともし火」と言っているのは、おそらく当時の狭くて暗い部屋で灯(あかり)として用いられたランプのことでしょう。イエス様の時代、貧しい人の家はたった一間で窓は一つだけ。暗くて風通しの悪い家でした。その暗い部屋を明るくするために朝早くからランプが灯され、寝るまで灯され続けたようです。その灯を、「器で覆い隠したり、燭台の下に置いた入りする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」筈だとイエス様は言っています。

イエス様は繰り返し明かりや光の話をしました。〈山上の説教〉では5:14以降で、「あなたがたは世の光である。ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」と述べ、更に「あなたがたはもう既に世の光なのだ」と言っています。だから「その光を人前で輝かし、人々があなたがたの立派な行いを見て、天の父をあがめるようにしなさい」と弟子たちに教え励ましています。

 

でもこれは例え話です。家の中の照明の話ではなく、この灯や光はイエス・キリストのことです。光の源であるイエス様に繋がり、イエス様の光を反射して輝く者になりなさいと教えているのです。地球が太陽の熱と光で生存しているように、私たちもイエス様から放出される熱と光と信仰を受け取って初めて人前で輝く存在になれるのです。

 

今ここに『岩村昇-ひかりをかかげて。ネパールの人々と共に歩んだ医師-』という本があります。以下、イエス様からの光を反射させながら生きた岩村昇医師の人生を紹介したいと思います。先生は1927年愛媛県宇和島市で生まれました。成長して広島大学工学部で学んでいた1945年8月6日、広島に投下された原爆を被爆しました。爆心地から僅か2㎞の大学内でした。気を失って倒れました。やがて気が付くとつぶれた机の間でした。身体にはガラスの破片が無数に突き刺さり、全身血まみれでした。原爆によって広島の街は一瞬にして瓦礫の原っぱとなり、約20万人が死亡しました。岩村青年は瀬戸内海を船で渡り、3日がかりで何とか故郷の松山に戻りました。

原爆症のために2年もの休学を余儀なくされた後、旧制松山高校(今の松山東高校)に通い始めたある日、岩村青年は運命的な出会いをしました。以下本から紹介します。「岩村青年は松山市の焼け跡で年老いたアメリカ人女性宣教師が路傍伝道をしているのを見かけました。彼女は『罪人よ、悔い改めよ』と大声で説いています。岩村青年は、この言葉を聞いて頭に血が上る思いで叫びました。『罪人とは誰に言っているのか。アメリカはキリスト教国でありながら、原爆を投下したではないか。何の罪もない非戦闘員を20万人も殺しておいて悔い改めよとは何事か。その言葉はあなたの祖国アメリカに向って言うべきことだ』と。するとその女性宣教師は岩村青年の足元に跪き、さめざめと泣いて祈り始めました。『主よ、大切なことに気がつかなかった私をお赦しください。でも私は日本が好きです。もし、お赦しいただけるなら、私をこの日本のためにお役立てください。そしてこの日本の若者を、平和をつくる者としてお導きください』と。この女性はフランシスという宣教師でした。思いもかけなかったこの祈りに岩村青年は激しく心を動かされました。岩村青年は神の御手に捉えられたのでした。岩村青年は、松山高校の掛谷末松先生とこのフランシス宣教師の導きでクリスチャンになりました」。後に鳥取大学の医学部を出て医者になり、日野原重明先生の勧めで無医村ばかりのネパールへ妻の史子さんと医療奉仕に出かけたのです。

皆さんは「古切手運動」を知っていますか?小学校や中学校でやっていませんでしたか?古切手200枚で結核予防の注射が1本買えるのです。岩村先生ご夫妻は一生をネパールの医療と健康増進運動に捧げ、今尚「ネパールの聖人」と呼び慕われている先生です。まさに光輝いた人生でした。でも岩村先生ご夫妻の光もイエス様の光を反射して輝く光でした。

 

イエス様は今日も私たちに、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と私たちに求め続けているのであります。