新井秀校長説教集42~墓に葬られるイエス様~

校長

2020年10月12日(月)
朝 の 礼 拝
- 墓に葬られるイエス様 -

『マルコ』15:42~47

1 はじめに

イエス様は金曜日の午後3時に息を引き取りました。午後の6時になれば安息日の始まりです。一切の行動が禁止です。あと3時間しかありません。ユダヤ人が絶対服従の旧約聖書の中の『申命記』22章23節には、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と書かれています。でも実際には、しばしば囚人の死体は埋葬されず、ただ十字架からおろされ、野犬や禿鷹の餌食になりました。ゴルゴタの丘が「されこうべの場所」と呼ばれたように、そこには以前からの多くの頭蓋骨が放置されたままになっていました。

アリマタヤ出身のヨセフは、イエス様を犯罪者と判断し、死刑が相当であると決めた国会議員の一人でした。「もしかしたらこの人こそ待ちに待ったキリストではないか」と心に思いながら、勇気を出してイエス様の無罪を主張することも出来ず、ただ無言を貫いた人でした。しかし今、十字架で死んだイエス様を前にして、勇気を出して自分がイエスをキリストと信じる者になったことを公にして、国会議員としての地位も名誉も投げ出して、総督ピラトにイエス様の死体の引き取りを願い出ました。

2.アリマタヤのヨセフの行動

イエスの死を確認したピラトは、イエス様の死体の取りおろしを認めました。ヨセフはイエス様の死体を亜麻布で包み、横穴を掘って作った自分のお墓にイエス様の死体を収め、墓の入り口には石をころがしたのでした。日本のお墓と違い、ユダヤのお墓は斜面を横に掘ったものです。ヨセフは時間と戦いながら、急いで、でも心を込めてイエス様の死体を葬りました。やがて死んだら自分が入ろうとしていた自分のお墓にイエス様を葬ったのです。

ヨセフは、生きておられたイエス様を見ていた時は、彼自身「神の国を待ちのぞんでいた」(43節)し、イエスに魅力を感じてはいたものの、それより深くは進みませんでした。しかしイエス様の十字架上の死を見た時、彼の心はイエス様の愛で砕かれました。イエス様が息を引き取られるのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と百人隊長が言ったように、ヨセフもまた「この人こそキリスト・メシアだったのだ」と心底思ったのです。

私たちは、「死んでから行動を起こして何になる!イエス様が生きている間に気付いてイエス様を救うべきだったのだ!」とヨセフを批判するのは容易です。でも私は、彼は本当に勇気のある人間だったと思います。国会議員としての地位も名誉も一切捨てる覚悟で、「私は今やイエス・キリストの弟子だ!」と公言したのです。勇気ある素晴らしい行動です。

私の尊敬する加藤常昭牧師は、説教でこう語っています。「もし今、アリマタヤのヨセフに会うことが出来るなら、手を取って『有難う!』と言いたいのです。それは私一人の思いではなく、この福音書を書いたマルコにしても、この物語を読んだ人たちにしても、まして、このアリマタヤのヨセフが行なう葬りの全てを遠くから見守っていたマグダラのマリアやその他の女たちにとっても、同じ思いであっただろうと思います」と。

アリマタヤのヨセフのその後は聖書には何も書かれていません。でも私は、彼がイエス様をキリストと信じる者として、イエス・キリストの弟子として、喜びと希望に満ちたその後の人生を送ったと信じています。