新井秀校長説教集51~洗礼とは~

校長

- 洗 礼 と は -

『使徒言行録』19章1~7節

今日与えられた短い聖書箇所に、「洗礼」という言葉が4回も出て来ました。そこで今朝は、私が洗礼を受けた体験を交えながら、洗礼の意味について話します。洗礼とは、人がクリスチャンになることを決心して教会で受ける儀式です。キリスト教の中には無教会やクエーカーなど洗礼をしない教派もあります。

私は、1945(昭和20)年に栃木県に生まれました。13人兄弟の末っ子です。家は天台宗で、仏壇と神棚が共存するごく普通の農家でした。中学3年の秋、母が脳溢血で倒れ、10日間意識不明の後に亡くなりました。

高校受験の直前であり、とてもショックでした。何とか希望の高校に入学できたものの、暗い無気力な毎日でした。父は末っ子の私を心配していたようですが、昔気質のため「お前頑張れよ!」などと声をかけてくれることもありませんでした。勉強もせず、部活もせず、何もする気にならない毎日でした。

父に相談もせずに日本育英会から奨学金を受け、「誰の世話にもならないぞ!」と強がりを言って暮らしていました。高校2年の時、私の無気力を心配した友人の大木君が、誕生日の祝いにと聖書と讃美歌をプレゼントしてくれました。彼は英語の勉強のためにアメリカ人宣教師の所に行っていたのです。私はそれをもって、近くの教会の礼拝に4週続けて通いましたが、牧師の話はチンプンカンプン!行くのを止めてしまいました。高校の教師になることを目指して大学や大学院まで行かせてもらったのに、無気力状態から抜け出せず、必死にもがき苦しむ毎日でした。

悩みから抜け出そうといろんな本を読みました。下村湖人の『次郎物語』、ヘッセの『車輪の下』、ジイドの『狭き門』、三木清の『人生論ノート』、西田幾多郎の『善の研究』など・・・。そして偶然、亀井勝一郎の『青春論』を手にしました。そこに『ヨハネ福音書』8章にある「姦淫の女」の話が取り上げられていました。姦淫の現場で捕らえられた女性をイエス様の前に引きずり出し、「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」と、イエス様に罠を仕掛けた場面です。「その通りだ。殺しなさい」と答えれば「日頃あなたの説く愛はどこへ行ったのですか」と言われ、「いや、赦してやりなさい」と答えれば、「あなたはモーセの律法を軽んじるのですか」と言われます。

暫くの沈黙の後、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したこのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と答えるのです。そして一人去り、二人去り、最後にはイエス様とその女だけが残ったという有名な聖書の記事です。亀井さんは、「私はこのイエス様の言葉に〈微妙心〉というものの絶頂を見るのです。宗教的深さの極致とは、罪についてこれを責めもせず、断罪もせず、しかも罪は罪として深く無言の裡に感じさせる、その偉大な愛であります。その愛を一番敏感に感じ取ったのは、この女であることは当然でありましょう」と書いていました。

私はこのイエス様の言動を知った時、大きな感動に震えました。「これは普通の人間の考えることではない。この圧倒的な愛は何だろう!これからの人生、このイエス様の弟子にさせてもらって生きてゆこう!」と考えました。24歳の時でした。こうして教会に行き始め、25歳の4月に高校の教師になり、その年の8月に洗礼を受けてクリスチャンになりました。洗礼式で頭に水滴が注がれる時、私は緊張と感動で涙が止りませんでした。

「洗礼を受けて何が変わったんですか?」と聞かれたことがあります。残念ながら殆ど変わりません。相変わらず自分勝手で短気で、人に迷惑をかけ続けています。でも確実に変わったことが二つあります。第一は信じるものができたことです。第二は暗く無気力な人間から、明るく勉強する人間に変わったことです。聖書の「いつも全力を尽くして主の業(愛)に励みなさい」(『Ⅰコリント』15:58)を守ろうとしているから、そうなれたのだと思います。

既に皆さんの先輩の何人かが洗礼を受けてクリスチャンになったように、更には牧師になった先輩もいるように、皆さんの中から、近い将来、イエス様を自分の救い主(キリスト・メシア)と信じて洗礼を受ける人が起こされることを、心から祈り願っています。