新井秀校長説教集81~復活についての問答~

   2022年12 月2日(金)

朝 の 説 教

          - 復活についての問答 -   『ルカ』20:27~40

 

今日は、復活などあり得ないとするサドカイ派の人々とイエス様の問答です。

イエス様は既に三回弟子たちに「自分は十字架で殺されるが三日目に復活する」と告げていました。30歳台前半の若さでの死は、人間イエスには避けたいことでした。でもこれは父なる神のご意思であり、イエス様はその命令に粛々と従って死に場所であるエルサレムに来たのでした。そんな十字架の死と復活を目前にしたイエス様に、復活を否定するサドカイ人たちが論争を挑んだのです。サドカイ派の人々は当時のエリートであり、国会議員や祭司の多くを占めていました。自分たちの恵まれた立場を守るためローマ権力にすり寄り、本当の信仰から遠く離れている人々でした。

復活とは死んだ人が生き返ることです。旧約聖書では預言者エリシャが裕福なシュネムの婦人の男の子を死から復活させた記事があります。新約聖書ではイエス様がマルタとマリアの兄弟ラザロを生き返らせています。復活などと聞くと皆さんは「そんな馬鹿な!」「そんなことあり得ないでしょう!」ときっと反論するでしょう。今世界には80億の人がいます。その三分の一の約27億人がクリスチャンです。クリスチャンは皆復活を信じています。勿論私も信じています。毎日曜日の礼拝で信徒たちは起立し、使徒信条を用いて「イエス・キリストは・・・三日目に死人のうちよりよみがえり」と大声で告白しています。私を含む世界中のクリスチャンは皆気が変なのでしょうか?聖光学院の校歌の一番にも「復活(よみがえり)の主仰ぎ行く」と書かれてあり、今年も甲子園からテレビ・ラジオを通じて全国に流れました。本校の創始者たちも皆、イエス様の復活を心から信じていたのです。だから校歌にそう書いたのです。

聖書によれば、イエス様は金曜日の午前9時に十字架にかかり、12時に全地が暗くなって神殿の幕が真っ二つに裂けました。そして午後の3時に亡くなられました。夕方の6時になれば何もしてはならない安息日が始まります、アリマタヤのヨセフとニコデモが力を合わせてイエス様を十字架から降ろし、丁重に墓に葬りました。そして三日後の日曜日の早朝、イエス様の死体に香料を塗るために墓に来た婦人たちに復活のイエスはご自分を現わされたのです。『ルカ』によれば、次にエマオへ行く二人の弟子に現れ、次には弟子たちにも現れたのでした。

キリスト教の教会では毎日曜日の朝、皆が集まって礼拝を守っています。それはイエス様が日曜日の朝早くに復活なさったことへの喜びと感謝の故です。英語にmorning service という言葉があります。クリスチャンになる前の私はこれは午前中、喫茶店やカフェで出す安い朝食セットのことだと思っていました。でもそれは大間違いで、日曜日の朝にもたれている教会の礼拝のことを指すのだと後で知りました。同じく英語にseeing is believing という諺があります。日本語では「百聞は一見に如かず」と訳します。これは中国の歴史書『漢書』(かんじょ)からの言葉ですが、もしこの英語を直訳すれば「見ることは信じることである」となりますよね。人間は見たから信じるのでしょうか?見たことは確認したことであって、信じるとは見ることのできないものを、敢えて信じることだと私は思うのです。復活の出来事を証明することは誰にもできません。でも「状況証拠」はあります。イエス様が捕らえられると我先にと逃げ出した弟子たちが、その後、死をも覚悟で全世界にキリストの福音を伝える者に変わったこと、ローマ帝国の監視の中、カタコームと呼ばれるお墓の下に掘った地下道で300年も礼拝を守り、信仰を守り続け、遂に392年、キリスト教がローマ帝国の国教になったこと、これらはイエス様の復活でしか説明がつかない大変化です。復活を証明する状況証拠は十二分に揃っています。

最後に、イエス様が今日の聖書で一番言いたかった結論をお話しします。

「いい加減にこんな退屈で馬鹿げた議論は止めよう。それよりも、生きている神に共にお仕えして生きてゆこうではないか!それ以外に人間が真実に生きる道などないのだから!」

繰り返します。

「いい加減にこんな退屈で馬鹿げた議論は止めよう。それよりも、生きている神に共にお仕えして生きてゆこうではないか!それ以外に人間が真実に生きる道などないのだから!」