新井秀校長説教集97~わたしのもとに来なさい~

校長

                        2023年7月5日(水)
朝 の 説 教

    - わたしのもとに来なさい - 『マタイ』11:25~30

今日の聖書の中で特に大切な28節・29節のイエス様の教えに集中して話したいと思います。

イエス様は28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけられています。この聖句は良くキリスト教会の掲示板に貼ってあります。イエス様は我々人間が疲れ果てていることを知っておられます。我々が病気や失業・失恋・親との死別・会社の倒産など、他人(ひと)には言えないような様々な困難・重荷を背負って生きていることも良くご存知です。だから「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と私たちを招いて下さっているのです。しかも29節で、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言っておられます。〈軛〉って何でしょうか?軛とは、2頭の牛で荷物を運んだり田畑を耕したりするとき、力のバランスを調整するために牛の首の上にかける横木のことです。これを付けると牛は自分勝手に動くことは出来ません。イエス様は私たちの軛の一方をイエス様が担ってくださっているのだと言うのです。何と言う喜び、何と言う平安でしょうか。イエス様と軛で一対になり、イエス様の進まれるままに従って生きれば、実に恵まれた素晴らしい人生を歩ませていただけるからです。

この聖句をより良く理解してもらうために、賀川豊彦先生のことを紹介します。賀川先生は生涯を社会福祉に捧げたクリスチャンです。賀川豊彦は1888年(明治21年)神戸に生まれました。しかし、4歳で父親を、5歳で母親を亡くしました。どんなに辛かったことでしょう。私は中学3年で母を脳溢血で亡くしていますが、その悲しみからなかなか立ち直ることが出来なかった人間です。僅か4~5歳で両親を一気に失った賀川少年の心は失望と落胆と悲しみで一杯だったろうと想像します。賀川少年はやがて、姉と共に四国徳島の本家に引き取られました。

賀川の悩み・悲しみはこれだけではありませんでした。実は賀川豊彦は父純一と妾の間に生まれた子でした。それを知った小学校の友だちからは「妾の子」「妾の子」とからかわれました。賀川少年はどんなに辛く悔しい思いをしたことでしょう。賀川は本の中に「私は小さい頃から悲しみの子であった」と書いている位です。

旧制徳島中学に入学した賀川は英語に興味を持ちました。英語の片山正吾先生はクリスチャンでした。片山先生から生れて初めて聖書の話やイエス様の話を聞きました。生きた英語を学びたくなった賀川は、ローガン宣教師が開くバイブルクラスに出席するようになります。アメリカ出身のローガン・パティご夫妻は、船で半年もかけて日本に来て、徳島を拠点に伝道をし、英語を教えていました。ローガンご夫妻は、誠実で愛に満ちた言動から徳島の人々から愛され、「彼ほど皆に親しまれた宣教師はなく、夫妻の住居前の通りは〈ローガン小路・ローガン・ストリート〉と呼ばれ、精神的にも、文化的にも、徳島市民に多大な影響を与えた」と評されています。

僅か4~5歳で両親に死別し、しかも妾の子などと馬鹿にされ、哀しみと憤りの一杯だった賀川少年にとって、ローガン夫妻は実の親を越えるような愛で包み込んでくれる存在だったのです。賀川は著書に「ローガン先生ご夫妻は、普通の社会では見ることのできない程に、本当に温

かい愛に満ちたクリスチャンでした。私はローガン先生の中に極めて美しい、そして静かな神の使いを見たのです。私に、どんな生活が幸福かと問う人がいるなら、ローガン先生のような生活が一番幸福だと答えるであろう。ローガン先生は全身全霊を日本のために捧げてくれた人である。私はローガン先生のような人間になりたいのです」と記しています。

一人ぼっちで寂しく空虚な生活を送っていた賀川少年は、徳島中学の英語の先生との出会いをとおしてローガン宣教師と出会い、その生き方に強い感銘を受け、ローガン宣教師の背後にいる神様・イエス様を信じて、クリスチャンになりました。イエス様を信じた後の賀川少年の人生には、絶えず軛の一方にイエス様がおられ、一対となっているイエス様の進まれる道を賀川少年も歩き続けたのです。

ローガン宣教師の教えは単純明快でした。God is love. Let us love one another(神は愛なり。私たちも互いに愛し合いましょう)を用いて、至る所でキリストの愛を分かり易く力強く語ったのです。

私の軛の片方には必ずイエス様がいる!イエス様がいつも私と一緒に行動してくださっている!今日のイエス様の愛の呼びかけは何と希望に満ちた感動的なものでしょうか!心から感謝する者であります。