新井秀校長説教集98~安息日に麦の穂を摘む~

2023年7月6日(木)
朝 の 説 教
- 安息日に麦の穂を摘む - 『マタイ』12:1~8

イエスさまと弟子たちは、麦畑添いの道を歩いていました。すると弟子たちは腹が減ってきたので、麦の穂を摘み、手で揉んで食べ始めました。それを見ていたファリサイ派の人々がイエス様に「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と批判しました。聖書には何度かこれに似た話が登場し、「安息日論争」と呼ばれています。

そもそも安息日とは何でしょうか?これは今からもう3300年ほど前、エジプト脱出の途中のシナイ山で、神様からモーセに授けられた「十戒」の4番目の戒めです。それは「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」という戒めです。具体的には週の初めの日曜日から金曜日まで働き、土曜日は安息日として一切の仕事を止め、心身を休めてリフレッシュし、近くの会堂(シナゴーグ)に行って礼拝を守るようにという戒めです。日本ならまだ縄文式時代の頃、男女同権も民主主義の考えもない遥か昔に、社会で最も弱い立場にある女性・子ども・奴隷・戦争に負けて連れて来られた寄留の他国人、更には家畜にまで必ず週に一日の休みを保証せよ、という画期的な愛に満ちた神様のご命令だったのです。それが時が経つにつれて細分化され、細かい決まりが作られ、人々の生活をがんじがらめに縛りつけるものになってしまっていたのです。安息日にしてはならないことには、

  •  種蒔きをしてはならない
  •  麦の刈り入れをしてはならない
  •  売り買いをしてはならない
  •  火を点けて料理をしてはならない
  •  900メートル以上歩いてはならない
  •  急病以外の病人を癒してはならない。等がありました。

ファリサイ派の人々は弟子たちが他人の畑に育っている麦を取って食べたことを問題にしているのではありません。何故ならユダヤの律法に、「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまで食べても良いが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(『申命記』23:25~26)とあるからです。弟子の行動は問題なしです。問題はその日が安息日であったことであり、麦を摘み手で揉むことが労働にあたるから、安息日規定を破ったとして批判されたのです。

それに対してイエス様は、昔、サウル王に命を狙われ逃亡生活を送っていたダビデが、空腹に耐えられず、祭司アヒメレクに頼んで祭司しか食べられないと決められている祭壇から下げたパンを貰って食べたことを例に挙げ、「あなたたちの尊敬するあのダビデ王でさえ、律法を破っているではないか」と反論しました。更にイエス様は、神殿で働く祭司たちは安息日に働いても罪にはあたらないと決められているではないか」と二重の反論をしました。

イエス様は決して律法を軽んじる方でありませんでした。安息日の土曜日には近くの会堂に行き、礼拝に出席しました。時には会堂司の了解を得て説教までなさいました。ただ、愛に根差して神様から与えれた律法が細分化され、詳細に禁止事項が決められ、庶民にはとても守れないような規則に人間の手で作り変えてしまい、更には人が律法を守っているかどうかを監視し合い、裁き合う状態になっていることを深く嘆いておられるのです。

イエス様が言いたいことは、「安息日は人のために定められ、神から我々に与えられたものだ。人が安息日のためにあるのではない。そこが完全に逆転しているではないか!」ということです。別な表現をするなら、「人は安息日の奴隷ではない。人は安息日の主であって、安息日は人の幸せと利益実現のために用いるべきある。それが神様のお心である」ということです。

 

ユダヤ教の安息日はキリスト教に引き継がれ、イエス様が復活なさった週の初めの日・日曜日を安息日としました。今や世界中で日曜日が休日として守られています。仕事を止め、心身を休めてリフレッシュし、教会の礼拝に出席して心の栄養、明日への希望を頂く日となっているのであります。安息日は遠い昔のユダヤ人だけのことではありません。世界中に住む一人一人の幸福と健康に関わることなのであります。愛を基として、神様から人間に下賜された有難いプレゼントなのであります。