新井秀説教集68~百人隊長の信仰~

2022年6月8日(水)
朝 の 説 教

- 百人隊長の信仰 -
『ルカによる福音書』7章1~10節

今日の聖書の主人公はローマの百人隊長です。百人隊長の役目は部下の100人の兵を用いてユダヤ人を監視し、騒ぎを起こさないように警戒することでした。ところがそんな彼が今日の出来事を通してイエス様からとても立派だと褒められています。一体彼のどこが立派なのでしょうか?三つ考えられます。

第一は、5節の「あの方(百人隊長)は、わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」に関係しています。ローマはユダヤを植民地として支配していたのですから、ユダヤ人はローマを憎み、隙あらばローマをやっつけようと狙っていました。それを防ぐために百人隊長はユダヤ人を厳しく監視し取り締まるのが常でした。ところがこの百人隊長だけは全く違い、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人が毎土曜日の安息日の集会に使う会堂をお金まで出して建ててくれたのです。そのことをイエス様は褒められたのではないか、とする考えです。その通りです。でもイエス様が一番評価したのはこのことではなく、別にあったと私は思います。

 

第二は、3節の「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」に関係があります。急病で死にそうなのは自分ではありません。愛する家族でもありません。一人の部下です。ここで部下と訳されているギリシャ語は「デューロス」と言い、「奴隷」のことです。奴隷は人間扱いされません。使い勝手の良い道具としか考えられていませんでした。だから年を取ったり病気になったら、使い物にならない不用品として外に捨てられ、死を待つしかありませんでした。彼に代わる若くて元気な奴隷はいくらでも安く手に入ったのです。ところがこの百人隊長は違いました。その奴隷の病気を何とかして治してやりたいと、ユダヤ人の長老を使者に立ててイエス様に癒しを求めたのです。この極めて例外的な愛に満ちた行動をイエス様は喜ばれ評価されたのでしょう。きっとそうでしょう。でもこれがイエス様の心を一番動かした要因ではないと私は思います。

 

第三は、7節の「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」と関係があります。私なら「一言おっしゃってください。そうすれば僕はいやされます」と訳します。ギリシャ語の〈ロゴス〉は単数形で使われていますから、「ひと言」は素晴らしい訳だと思います。「そして、わたしの僕をいやしてください」ではなく、「そうすればわたしの僕はいやされます」と訳す方が百人隊長の気持ちに近いと思います。そうです!この百院隊長のイエス様に対する絶対的信頼、これこそがイエス様の心を揺り動かし、癒しの業・奇跡を行わせた要因であり、イエス様に「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と思わず叫ばせた真の原因だったのであります。

『ルカ』では「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」とありますが、『マタイ』では「百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じた通りになるように』。ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあり、百人隊長がイエス様への絶対的信頼を表明したその瞬間に、遠く離れた場所にいた僕の病が癒されたことを鮮やかに描いています

 

この場に居合わせたユダ人の長老たちは、この百人隊長が自分たちを荒々しく扱うのでなく、会堂までお金を出して建ててくれたなどの〈行ない〉を評価しているのに対して、イエス様はこの百人隊長の〈信仰〉・(心の持ち方)を評価しています。神の独り子であるイエス様は常にどこを見ておられるのか、視点がどこにあるのか、私たちには大きな教えであり、警告でもあります。

 

私たちもまたこの百人隊長のように、隣人には愛を以て接し、神様・イエス様には絶対的な信頼を寄せる者でありたいと、改めて教えられた者であります。