新井秀校長説教集13 6月20日(木)

今日の聖書は、ファリサイ派の人々がイエス様に、「お前が本当にキリストだと言うなら、天からのしるしを見せろ、確実な証拠を見せろ」、と要求したところです。「しるし」は英語の聖書ではサインです。野球部の諸君は、ゲーム中監督の出すサインを見て、その指示に従ってバントしたりヒッティングしたりすると思います。うっかりサインを見落としたり気づかなかったりすれば、勝敗にかかわる一大事です。それ位サインは大切なものです。今日の聖書では「証拠」という意味で用いられています。

当時、ユダヤはローマ帝国の植民地でしたから、人々はローマからの独立を
達成してくれるような強いリーダーとしてのメシアを待ち望んでいました。また彼らは、メシアがこの世に来られる時は、天変地異、つまり、火山の爆発とか大きな地震とか、何日も続く雨など、何か非常に驚くべき破壊的な自然現象が起こると考えていました。まして、ナザレの町でついこの前まで大工をしていたイエスがキリストであるなどとは、到底認め難いことでした。人間は、自分で作り上げた尺度・価値基準をなかなか譲りません。ファリサイ派の人々に
は、「あのナザレのイエスがキリストである筈などあり得ない」という先入観がありましたから、執拗にイエスが神の子である証拠を求めたのです。

聖書の別の箇所を見ると、イエス様が本当に神の子・キリストなのかを疑ったのは、ファリサイ派の人々だけではないことが分かります。イエスさまの先駆者であるべきバプテスマのヨハネでさえ、牢屋の中で死の恐怖に晒されながら弟子をイエスの元に派遣して、「来るべき方(メシア)はあなたでしょうか。それとも他の方を待たねばなりませんか」と尋ねています。イエス様の答えは単純明瞭。「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」(『マタイ』11:4~5)。「あなたがたがわたしについて見聞きしたことで、しるし(証拠)は十分だろう」とイエス様は答えたのです。

先週、私たちは礼拝で讃美歌361番「この世はみな」を歌いました。私の大好きな讃美歌の一つです。詩も素敵ですし、メロディーも美しい讃美歌です。詩では特に3節後半の「わが心に 迷いはなし。主こそがこの世を治められる」は、力強く信仰の核心を突いた素晴らしい言葉だと思います。この曲の詩を書いたバブコックはイギリス系アメリカ人で牧師でした。二人の子を生まれてすぐに亡くし、悲しみの多い人生でしたが、やがて牧師になりました。彼の教会はアメリカのオンタリオ湖とナイアガラの滝の近くにありました。その素晴らしい自然が大好きだった彼は、良く奥さんを誘って「神さまのお創りになった素晴らしい世界を見に行こう!」と行って散歩に出かけました。43歳の若さで亡くなりましたが、遺品の中から彼の書いた素晴らしい詩が見つかりました。それは各行が「This is my Father’s world」(この世界は父なる神の創られたもの)で始まる詩です。この讃美歌の2節は「この世はみな神の世界、鳥の音、花の香、主をたたえる。朝日、夕日、空に映えて、み神のみわざを、語り告げる」と訳されていますが、私なりに訳すとこうです。「この世は神さまがお創りになったものです。鳥たちは鳴き声で、花々はその香りで、創り主なる神をほめ称えています。朝日も夕日も空に美しく映え、神はご自分がお創りになったこれら全てのものを通して、今日も、私たちに語りかけています」。何と美しい、素晴らしい詩でしょうか!

今年ももうすぐ田んぼの畦道などに「露草」が可憐な青い花を咲かせ始めることでしょう。うっかり見過ごしてしまうような小さく目立たない花です。ずっと前、私は尾瀬に行く途中の福島県檜枝岐村で綺麗な露草を見つけました。早速カメラを準備し、三脚を立て、90ミリのマクロレンズをつけ、腹ばいになり、レンズを通して拡大された露草を見ました。その美しい青、精巧な作り、色の配置に思わず息を飲みました。「この色!この色の組み合わせ!これは神さまがお創りになった花だ!」と心底思いました。「この世はみな」を作詞したバブコックと同じように、私も自然の中に神さまの存在の「しるし」を感じる者の一人です。

私たちは、「イエスよ、十字架から降りて来い。そうした信じてやる」と言うような、しるしを求める疑い深い者たちの側に立つのではなく、「全世界は神のしるしに満ちている。神の奇跡で出来上がっている。畑に実る小麦、空を飛ぶ小鳥、そのようなものの中に神さまがおられる!」と、世界のあちこちに神さま・イエス様の存在を見いだせる者でありたいと思います。