新井秀校長説教集28~妬みの罪~

2020年6月25日(木)

朝 の 説 教

妬みの罪(『マルコ』7章14節~23節)

 

  • はじめに
    ユダヤの指導者たちは、イエスに何か問題行動がないかをずっと監視していました。あれば、捕らえて、裁判にかけて、殺そうというのです。人の良い所を見ようとする暖かい眼差しではなく、どこか悪いところはないかと裁きの目で見る、何と冷酷で人間味のない眼差しでしょうか!彼らは、イエスの弟子たちが、手を洗わないで食事をすることを見つけました。早速「どうしてあなたの弟子たちは汚れた手で食事をするのか」とイエスに詰問します。ユダヤ人は実に念入りに手を洗いました。まず片方の手を上にして少しの綺麗な水を注ぎ、もう一方の手で握り拳を作り、それでごしごしと擦りました。次に手を下に向けて綺麗な水を注いでそれを洗い流したのです。またユダヤ人は神聖な安息日の前日には、身体を水で洗いました。動物を食べるにも、食べて良いものと食べてはいけないもの(汚れたもの)の厳重な区別があり、それを忠実に守っていました。2000年経った今でもです。例を挙げると豚肉やイカです。豚肉がなかったら美味しいベーコンも、ハムも、ソセージも、それに大好きな名古屋の味噌カツも会津のソースカツも食べられません。私はイカも大好きです。教師になって初めての修学旅行で函館に行き、イカのお寿司を食べた時の美味しさは今も忘れられません。民族によって考え方は様々ですね。

 

  • イエス様の言いたかったこと
    イエスは手洗いや体洗いの大切さを否定したのではありません。そうではなく、そうしたくても出来ない人を思いやる愛の心の大切さを第一に説いているのです。当時の庶民には、砂漠の中で綺麗な水を用意することは不可能だし、生活するのに精一杯で、ゆっくり手洗いをする余裕もありませんでした。
    イエス様が第二に指摘したのは、手や身体を洗って清くすることも大切だが人間の心の中を清くする方が、もっと重要だということです。聖書に「感謝して受くれば、捨つべきものなし」(『Ⅰテモテ』4:4)とあります。私はその通りだと思います。

 

  • 第二にイエス様が言いたかったことは、人間の心から出てくる数々の〈悪い思い〉です。21節にその具体例が12個も書き出されています。皆さんはこの内のどれだけに合格ですか?私は正直、全部落第です。その中の「ねたみ」ついて考えてみましょう。ところで妬みよりも症状の軽いのが「羨やむ」です。私は、ピアノやギターなど楽器が弾ける人がとても羨ましいです。私はハーモニカしか演奏できませんし、楽譜も読めません。症状が軽いと言いましたが、辞書で調べると、「うらやむ」とは「心が病んでいる」ことです。でも「羨ましいなー」位なら大丈夫です。これが「嫉妬」になると、事は重大です。相手を殺すことにまで発展するからです。人間は他人と自分を比較して、自分が劣っているのを嘆き、自分よりも優れている相手を妬む者です。『創世記』には、兄カインが弟アベルを妬んで、人類最初の殺人事件を起こしたことが書かれています。旧約聖書『サムエル記上』には、サウル王の、家臣のダビデへの妬みが書かれています。サウル王の家来に過ぎなかったダビデでしたが、彼は戦に出る度に大勝利を挙げました。凱旋帰国すると、道路に群がった群衆、特に女性たちが、「サウル王は千を討ち、ダビデは万を討った」とダビデの戦果を褒めました。それを聞いたサウル王は、「このままでは、いつダビデに王位を奪われるか心配だ」と妬みの心を起こしました。息子ヨナタンの抗議も受け入れず、サウル王はダビデを殺すべく、何度も彼を追い詰めました。でもサウル王は結局、神からの裁きを受け敵軍に殺されてしまいました。

    先日テレビで「駅ピアノ」を見ました。大きな駅や空港にピアノが置いてあって、そこで旅人が自由にピアノを弾くのです。オランダの空港で一人の紳士がピアノに向いショパンの「幻想即興曲」を弾きました。プロの腕前です。インタビューで彼はこう言っていました。「私はピアニストを目指していました。でも親友にはかなわなかった。彼は国際コンクールで優勝した。私は自分はダメだと思ったし彼を妬みました。でも神様は別な能力を私に与えてくれていると信じ、大学で深い海に住む生物の研究をしました。研究の傍らこうして時々ピアノを弾いて楽しんでいます。良い友人と巡り合えて良かったと今では感謝しているんです」と。私は、こういう考え方こそ妬みを解消する素晴らしい考え方・生き方だと思ってお話ししました。