新井校長説教集19 ~使徒ヨハネの人生~

2020年2月14日(金)
朝 の 説 教
- 使徒ヨハネの人生 -
『ヨハネの手紙三』13~15

1 はじめに

今日は手紙の最後の部分です。ヨハネの思いが短い言葉に凝縮されています。手紙ではなく近い内に直接訪問したいこと、受取人のガイオや教会の仲間に平和(平安)があること、主にあって仲良く暮らすように、と書いています。ヨハネは、イエス様の弟子になったばかりはとても怒りっぽく、「雷の子」と呼ばれていましたが、今や「愛の使徒」と呼ばれる程に成長し、変えられています。イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、皆、苦難と忍耐の生活を送りました。ヨハネもそうでした。しかし、パウロが「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を産むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(『ローマ』5:3-5)というように、苦難を忍耐し、最後には希望に満ち満ちた生涯を送りました。日本でも昔から「艱難汝を玉にす」と言います。人生の苦難は出来たら避けたいものですが、愛なる神様は、私たちを訓練するために苦難をお与えになるお方であります。

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新井校長説教集 18 ~教会というところ~

- 教会というところ-

『ヨハネの手紙三』9~12

1 はじめに
この手紙の著者は学問的には異論もあるようですが、私はイエス様の12弟子の一人のヨハネだと思っていますし、そういう前提で話をします。イエス様の12弟子の内、イスカリオテのユダはイエス様をお金で売ったことを後悔して自殺しました。他の10人は皆殉教しました。イエス様の福音を伝えたために捕らえられて殺されたのです。しかしヨハネだけは、十字架上のイエス様からの依頼通り、「それから弟子(ヨハネ)に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を日分の家に引き取った」(『ヨハネによる福音書』19:27)弟子でした。唯一長く生きた直弟子でした。
イエス様が亡くなってから暫くの時が経ち、クリスチャンが生まれ、教会が生まれました。それらの教会をヨハネは巡回して指導していたのでしょう。それらの教会の一つにディオトレフェスがいました。その教会の牧師であったのでしょう。彼は巡回指導者のヨハネに強い反感を持っていました。ヨハネから見ると彼には多くの欠点がありました。それは、①指導者になりたがっていること、②ヨハネたちを全く受け入れないこと、③悪意に満ちた言葉でヨハネたちをそしること(別な訳では「根も葉もない悪口を言いふらしている」)、④気に入らない者を教会から追い出している、ことです。ヨハネは10節で「そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います」と断固たる決意を語っています。

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新井校長説教集17 ~キレネ人シモン、イエス様に出会う~

2019年10月24日(木)
キレネ人シモン、イエス様に出会う                            『マルコ』15:21~25

1 背景
いよいよイエス様が十字架に付けられる場面です。今日の聖書は、約2,000年前のエルサレムでの、金曜日の朝9時前の出来事です。弱虫のローマ総督ピラトは、群衆の暴動を恐れ、ローマ皇帝に自分の悪い噂が伝わることを恐れ、イエス様には何の罪もないと知りながら、十字架刑を許可しました。明日は土曜日、安息日、何もしてはならない日です。今日中に十字架に架けてしまわねばなりません。イエス様に重い十字架を担がせて、処刑場であるゴルゴタの丘まで進みました。この道はラテン語で「ヴィア・ドロローサ」(苦難の道)とか、「ヴィア・クルキス」(十字架への道)と呼ばれています。1キロ近い長さです。
イエス様は夜通し裁判に引き回されて一睡もしておらず、こぶしで殴られ、葦の棒で叩かれたり、鞭で打たれたりして、体は血だらけにされ、疲労困憊していました。イエス様にとって、重い十字架を最後まで担ぐことは無理でした。伝説では3回躓き転んだと言われています。見かねたローマの兵隊が、たまたまそこを通りかかったキレネ人シモンに命じて、十字架を担がせたのでした。

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新井校長説教集16 ~あなたこそわたしの神、依り頼む方~

2019年10月9日(水)
あなたこそわたしの神、依り頼む方-
『詩編』91:1~11

1 はじめに
この詩91はいつ頃、誰によって書かれたのか分かりません。おそらく今から3,000年近く前、神様を深く信じている人が書いたものでしょう。全部で150ある詩の中で、「信頼の歌」に分類される詩です。この詩は、神様を信頼し賛美する言葉で満ちています。神様に対する苛立ちとか、自分の不幸や不自由を、神様に責任転嫁するような言葉は皆無です。
この詩が言いたいことつまり結論は、「全能者である神様・イエス様に頼りなさい。神様はたとえどんなことがあっても、神を信頼する者には最善を為してくださるお方です。弱い私たちは、神様・イエス様のみ翼の下を安息の場所、隠れ家(シェルター)とさせていただきましょう」ということです。
「神様に頼るなんて弱い人間のすることだ」と言う人がいます。大きな間違いです。いくら強がりを言っても人間は所詮弱く、罪深い者です。聖書を良く読んで、『走れメロス』のような妹への愛と、友への友情と、誤った王に断固抵抗する正義感に満ちた、全く聖書の精神そのもののような小説を書いた太宰治でさえ、最後は愛人と入水自殺してしまいました。正しいもの、清いものを求めても、そう生きられないのが人間です。素朴に、単純に愛なる神様・イエス様を信じ、守っていただくことが、喜びと希望の人生へと我々を導いてくれるのだとこの詩の作者は言っています。

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新井秀校長説教集15~哀しみのどん底から~

- 哀しみのどん底から -
『詩編』88編

今日の詩は出口が無いような、深い悲しみに満ちた詩です。イギリスの神学者カークパトリックは、「詩編150編の中でも、最も悲哀に満ちた詩である」と言っています。例えば、4節の「わたしの魂は苦難を味わい尽くし」や、5節・6節の「力を失った者とされ、汚れた者と見なされ」や、9節の「あなたはわたしから親しい者を遠ざけられました」などです。悲しみ苦しみの原因は何なのでしょうか?分かりませんが、「汚れた者とみなされ」や「わたしから親しい者を遠ざけられました」などから、この詩の作者は重い皮膚病に犯され、家族から捨てられ、友達からも捨てられ、哀しみのどん底にあるのだと想像することもできます。かすかな救いは14節の決意です。これは冒頭に「しかし」を入れるべきだと思います。「しかし主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向います」と書いています。たとえ苦しみ哀しみから逃れなくても、わたしは「祈り続けます」「希望を持ち続けます」との決意を述べているからです。

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新井秀校長説教集14~もし罪を犯させるなら~

- もし罪を犯させるなら - 『マルコ』9章42節~50節 今日の聖書には、罪に対するイエス様の大変厳しい言葉が繰り返されています。「つまずかせる」という言葉が4回出て来ます。「つまずく」とは「歩く時に、足先に物が当たってよろけること」で、転じて、「仕事につまずく」などのように、「障害があって中途で失敗する」ことを意味します。私ならつまずくとは訳さず、もっと原語に忠実に「罪を犯させるなら」と訳します。この訳を用いれば、「もし片方の手や、片方の足や、片方の目があなたに罪を犯させるなら、それらを切り捨ててしま... 続きを読む

新井秀校長説教集13 6月20日(木)

今日の聖書は、ファリサイ派の人々がイエス様に、「お前が本当にキリストだと言うなら、天からのしるしを見せろ、確実な証拠を見せろ」、と要求したところです。「しるし」は英語の聖書ではサインです。野球部の諸君は、ゲーム中監督の出すサインを見て、その指示に従ってバントしたりヒッティングしたりすると思います。うっかりサインを見落としたり気づかなかったりすれば、勝敗にかかわる一大事です。それ位サインは大切なものです。今日の聖書では「証拠」という意味で用いられています。

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新井秀校長説教集12 6月19日(水)

1 背景 イエス様の後にはいつも群衆が従っていました。今日の聖書では、その数何と4千人もの大群衆でした。しかも群衆は、①もう3日もイエス様と一緒にいるのに何も食べる物がなく、②空腹で、③かなり遠くから来ている人もおり、④このまま帰らせれば、途中で疲れ切ってしまう危険がありました。そうした群衆を見てイエス様は「かわいそうだ」(2節)と思いました。「かわいそうに思った」と言うより、「憐れでならない」とか「気の毒でならない」と訳したい言葉です。それに対する弟子たちの答えは、「こんな人里離れた所で、いったいどこか... 続きを読む

校長説教集 1〜11

校長説教集を過去ブログより転載いたします。 以下よりご覧ください。 校長説教集① 「あなたたち偽善者は不幸だ」 校長説教集②「ユダヤの民全体の悔い改めと祈り」 校長説教集③「イエス様を裏切る弟子たち」 校長説教集④ 「侮辱に耐えるイエス様」 校長説教集⑤ 「祝福を約束してくださる主」 校長説教集⑥ 復活なさったイエス様 校長説教集⑦ 「バブコックの信仰と生涯」 校長説教集⑧ 湖の岸辺の群衆 校長説教集⑨ 種を蒔く人のたとえ 校長説教集⑩ 「五千人に食べ物を与える」 校長説教集⑪ 「湖の上を歩く」 &nbs... 続きを読む